小郡市のパワースポット、御勢大霊石神社

 

先日、福岡県小郡市にある御勢大霊石神社(みせたいれいせきじんじゃ)に行ってまいりました。

西鉄大保駅から東に700mほど行った場所に鎮座しています。地元の人たちからは「大保神社」と呼ばれ親しまれています。

 

福岡県道88号線を走っていると、道路沿いに突然現れる大きな鳥居と、広く趣のある境内がとても印象的で心に残ります。

 

 

御勢大霊石神社は、主祭神は足仲彦大神(あしなかつひこのおおかみ=仲哀天皇)で神功皇后ゆかりの神社です。副祭神は、天照皇大神・八幡大神・春日大神・吉富大神(738年の創建者)です。

 

 

境内はきれいに清掃されていて、池と太鼓橋が有ります。

池には立派な錦鯉が泳いでいます。鯉のエサも一つ100円で売っていますので、家族連れで行くと子供が喜びそうです。

 

 

神功皇后2年(202年)の創祀で、第14代仲哀天皇が熊襲征伐に当たり、行宮をここに設けました。ところが天皇が戦線を巡視した時に毒矢に当たり、この地で崩御しました。妻の神功皇后は兵士の士気の衰えることを恐れて喪を秘し、熊襲征伐の後、香椎の宮で発喪しました。その後、朝鮮出兵にあたって、御魂代の石を軍船にのせ仲哀天皇の鎧と兜を着せて征途につき、戦勝後凱旋すると、その石を天皇の御魂代として、また朝鮮半島を守る不動石として祀ったと伝えられています。

社名にある「御勢」の「勢(せ)」とは「夫(せ)」の意味で、神功皇后が仲哀天皇のことを「せの君」と呼んでいたことが由来だと言われています。

 

 

拝殿前の左側に大きなご神木があります。拝殿は大きくとても立派ですが、それと共に存在感があるご神木です。

このご神木は、御霊石に支えられ、楡欅(にれけやき)、もちの木、榊の三本の木が三身一体となって合体し、非常に雄大な姿をしています。子孫繁栄、良縁結び、家内安全に御利益があるそうです。

 

拝殿の裏手には保育園があり、園児たちの元気な声が境内まで聞こえてきます。自然に癒され、子供たちの声に元気をもらえる、そんな素敵なところです。

 

 

また、境内には「成末神社」が鎮座していて「仲哀天皇荒魂」を祀っています。木が生えて、どれが御神体石か分かりにくくなっていますが、神社の中でも一番重要な祠になると思われます。

そして、境内社として粟島神社(御祭神:少彦名命)があります。少彦名命は、大国主神の国土経営に協力しましたが,伯耆国淡島で粟茎に弾かれて常世国に行きました。農業・酒造・医薬・温泉の神として信仰されています。

大晦日は年越しの初詣の参拝客でとても賑わい、神酒やぜんざいを振る舞っていただけます。また、7月31日・8月1日には、地域のお祭が行われ盛り上がります。

 


御勢大霊石神社(みせたいれいせきじんじゃ)

〒838-0115 福岡県小郡市大保1032

 

 

神功皇后二年(二〇二)創建、社記・伝説に よれば第十四代仲哀天皇は熊襲征伐に当り、 橿日宮の本陣より此の地に軍を進められ大保 の里が白州で清浄であったので天神地祇を祀 り仮陣地とし軍を指揮された。偶々近臣を従 え志気を鼓舞するため戦線を廻られた折、敵 の毒矢に当られて此の地にて崩御された。皇 后は時恰も激戦中で志気の沮喪をおそれ深く 秘して仮に御殯葬申し上げた。

熊襲征伐後軍を纏めて御崩御を布告し、御霊 柩を橿日宮に移して発喪された。その後三韓 征伐に於て御魂代の石を軍船に乗せ、その石 に仲哀天皇の御鎧及び兜を着せて征途につか れ、戦勝御凱旋されて、その石を天皇の御魂 代として、大保の郷の殯葬の地に宮柱太敷立 て斉き祀られ御勢大霊石と崇められた。

今、社前にある石がこれで御剣・御衣も納め られ御本體所と称する。御勢を夫にて皇后よ りの尊親の称である。

 

 

社伝によると、欽明天皇の9年、天武天皇の9年、宇多天皇の寛平3年、鳥羽天皇の天永3年、高倉天皇の安元2年の5期にわたって造営があり、多くの神領が寄進された。その後たびたび兵火にかかり社殿・神宝などを焼失した。

 

御勢大霊石神社の主祭神は、第14代仲哀天皇である。伝承によると、仲哀天皇が熊襲征伐に当たり、行宮をここに設けたという。ところが天皇が戦線を巡視した時に毒矢に当たり、この地で崩御した。神功皇后は兵士の士気の衰えることを恐れて喪を秘し、熊襲征伐の後、香椎の宮で発喪したという。その後朝鮮出兵にあたって、御魂代の石を軍船にのせ仲哀天皇の鎧と兜を着せて征途につき、戦勝後凱旋すると、その石を天皇の御魂代として、また朝鮮半島を守る不動石として祀ったと伝えられている。

今社前にある石がこれで、御勢大霊石といわれている。社前の立石の場所が天皇殯葬の地といわれている。延喜式内社筑後四社の一つである。御原郡十九ヶ村の産土神で、造営は御原郡・御井郡の両郡でとり行われた。明治29年県社に列せられた。

 

 

飛鳥時代の第29代欽明天皇9年(548年)、白鳳9年(669年)に社殿が造営されました。平安時代中期(967年)に編纂された格式(律令の施行細則)である延喜式内社筑後四社の一つに定められました。天永3年(1112年)、安元2年(1176年)にも再興されました。室町時代の文明2年(1470年)には筑紫興門が再興されるが、戦国時代の天正14年(1586年)に戦火に遭って炎上、焼失しましした。しかし、その3年後の天正17年(1589年)に宝殿・拝殿・仮殿が再建されました。明治時代は、御原郡19ヶ村の産土神で、造営は御原郡・御井郡の両郡で執り行われました。明治29年には県社に列せられました

一の鳥居は正徳5年(1715年)の建立で、大保地区の集落内にあります。平成時代に入って完成した小郡市のメインストリートの七夕通りが参道を横切っています。その際に、平成10年に建立された二の鳥居の先には神池があり、石造りの太鼓橋が架かっています。三の鳥居は明治24年の建立で、拝殿前に仲哀天皇御魂代の御霊石があります。神紋は、平安末期までは菊花菱でしたが、八幡系であるため現在は「三つ巴」です。境内にある大きなクスノキ(樹高21m・目通り幹囲6.1m)は社殿の手前、向かって左に聳えていています。幹をタマヅタが覆い、日光を浴びて、鮮やかな緑色を呈しています。

 

 

神功皇后伝承地

仲哀天皇の御形代とした石を奉斎し、凱旋後宮柱を建て祀った。仲哀天皇の剣と衣を納めた。

 

御祭神

仲哀天皇

 

熊襲との戦いで矢に当たった事を伝える。それが元で崩御された説の根拠地となる。仲哀天皇が前線に立ち戦っていた事、この地域が交通の要所で重要な地であった事を物語る。境内には大霊石が祀られるがこの地域に生きた人々は武神として崇めたのだろう。